昭和41年05月19日 朝の御理解



 私ぐらい、自分自身の助かりの事を、願い思うておる、又それを言うておる者は、なかろうと思う。皆さんお話を聞いて下さっておっても、それを感じなさるだろうと、こう思います。私自身の助かり、又言葉を替えますと、椛目くらい、めいめい自分自身の助かりを言うておる、ところはなかろうとこう思います。その中で私は、私の思うておる事が嘘ではないと云う事です。
 先ず、私自身が助からなければならんね。もちろんそれは私が( ? )病気をしとる、病気を治したい。お金に不自由をしとればお金のおかげを頂きたい。私がそういうおかげを頂きたいという。例えばあの外部からの助かりではなくてですね。例えば、病気をしておっても、いわゆる金銭の不如意な中にあっても、例えば、普通から言えば、難儀というその中にあってもです。
 それを難儀と感じんだけの助かり。いわゆる内部的な助かり言うならどういう中にあっても暑い中にあっても、寒い中にあっても有難いと思えれる事に精進し、その事を言うたり思うたり又話したりしておるものは、もう本当に私より他にはなかろうと思うくらいです。もうこれはどこでお話をさして頂きましてもそうです。ここでのお話は結局私の助かり、又私の助かっていきよる、状態を言わば皆様に聞いて貰いよるとです。もうだから何時も焦点はそこにあるんですね。
 その為に信心さして貰っており、その為に修行させて貰っておる。だからこれだけ私が、例えば思い言い、皆さんに聞いて貰っておる訳ですから、皆さんもやっぱりその所に焦点を置いていかなければいけないね。外部的な、只、ここが痛いとか、ここが痒いとかね、その事がおかげに成ります様にと云う事の願いもさる事ながらです、それよりも、もっと大事なそういう中にあっても助かっておる自分という。
 そういう中にあっても、しみじみ神様の思いを味あわせて頂けると、どういう中にあっても私の心の中に、有難い事だなあと言う風に、有難い事が分る信心に、先ずならなければならないと云う事です。皆さん、どうでしょうかね。皆さん方が、私が今言っている様な事をですね、あの言われなさる様に、ひとつならないかんと思うです。私位本当に自分の心の助かりというものを願っておる者はなかろうとね。
 例えば、子供がどうぞ、おかげを頂きます様にというてから、その子供の事だけを願って、子供が助かったところでです、どうぞ金銭の、お繰り合わせを願ったところでです、それは子供は、自分の思う様にはならん。金銭の事は、自分の思う様にはならんけれども、思う様にならん中にです、私は助かっておると云う事。そして後に、その金銭のお繰り合わせも頂いたらよかろう。外部的な、いわゆる子供の事を願っておるなら、子供のおかげを頂いたならよかろう。
 昨夜もう、皆さんが帰られたのが一時過ぎだったでしょうか。それから私は必ず、御初穂の整理を致します。是は毎晩の事で御在ますけれども、あの二番目の娘が夜の方を受け賜ってくれるんです。まあ、別に兄弟が話合っておる訳でもありませんでしょうけれども、長女は朝の方を受け賜って朝の御祈念、朝の御神飯炊きを受け賜ってくれるね。二番目のが最後まで私が休むまで奉仕してくれます、もう私と一緒にとはいきませんから、皆も早く休みます。家内も早く休みます。
ですから、その二番目の娘は朝の御祈念なんか、なかなか出られません訳ですね。もうどんなに今夜は早いなあと思って休む時でも十二時より早く休む事は御在ません。ですからもう、最後まであの御用してくれますのは、二番目の娘、愛子で御在ます。昨日も私の御初穂の整理を手伝わせて頂きながら、先日そのこんなお夢を頂いたというんです。というのは、あの内田さんところに孫が二人来とりますが、その下の方の子供に「ちから」さんというのがおりますね。
 そのお父さんがお結界から、愛子に私に向かって言われるのにその、愛子さん力さんばお供えせないかんよと仰る。力さんをお供えするのですかちゅうて、力さんを抱いておる。そうじゃ力さんをお供えせないかんよと力さんをですかと、何遍も聞き反しておる内にですその、確かに主税さんを抱いておった筈だった所がですが、もう本当に主税さん位大きな伊勢海老をこう抱えておったと言うお夢を頂いたね。それで愛子さん。
 お前お父さんが何時もこれは言うておる御理解のあの、伊勢海老の御理解を知っておるかと言うて、又、これで御初穂の整理をしながら、伊勢海老の御理解を愛子に説かせて頂くんですね。あの伊勢海老というのは、勿論伊勢辺りで特に捕れるから伊勢海老というのでしょうが。 その捕られますと、すぐ他の魚の様にですね、その市場に出したり。すぐ市場送りをすると云う様な事をしませんそうですね。伊勢海老は捕られますと必ず、小さい箱の中にいっぱいこう入れられるそうです。
 そしてそれを、もう非常に波の荒い所に綱を付けておいてから、投げ込まれておるそうです。それが五日なり一週間なり、やっぱりそうしてほったらかしにしておくそうです。それを生き締めるというそうですね。生き締める、生きながら締めるという訳ですね。ですから窮屈な箱の中でです、しかも荒波に中で揺られ、揉まれながら、それでも命を保つ。いわば訓練がでけておる訳です。
 ですからそれを今度又、発送用の荷造りに変えられてそして魚屋の店頭に出される時でもです、やっぱりごそごそ這う様な元気がある訳です。あれを捕ってからすぐ、送りますとですね、もう、市場に着いた時にゃ死んでしまっるとるそうです。ですから伊勢海老は死んでおったら値打ちがないと云う事です。その為にその生き締め、その為にわざわざ窮屈な修行をさせると云う事。
 だから愛子さんあんた達がここに居る間は、どんなに例えば我が儘をしとってもいいにしても、出た時にですね、それではやっぱり難儀しなけれはならんのは、自分自身であり、どういう難儀な中にあっても、それがむせる事がない。へこたれる事がない。そしてそういう中に神様の神様なればこそ、こういう窮屈な生活をさして下さるんだと、それが生き締めておって下さるんだと。
 それが私の命を永らえて下さる為に、どんな事にでもへこたれ来ない為に、神様が生き締めておって下さるんだという、その喜びが頂けれる様なおかげを頂かなけれはならない。それが力になるので、それが力をお供えする事ぞ。私共の言わば神様を信ずる力。その力を神様にお供えするという、その力だけのおかげを私共が又頂く事が出来ると云う事ね。例えばデパ-トに参りましたならば、お金を百円やれば百円だけの商品。
 千円やれば千円だけの商品が貰えれる様に、私共が百の信ずる力を神様にお供えする事によって、百のおかげが受けられるです。神は信ずる者を信ずるとおおせられますね。神様を確信する信ずる力というのは、いわゆる私はまあ申します様に、私自身が助かる事だとこう思うです。それはどういう窮屈な中にあってもです、ですからまあ私もそこの事に付いて具体的に色々な事を申します。例えば六時間ならば六時間、七時間ならば七時間もう、一日にこれ以上は休まんと言う風に決めときなさいと。
 例えていうならばね、ですからもう、絶対、六時間いか一日のうちに、休まんと云うことにして、自分で決めて、そういうきちっとした、箱の中に自分を入れてしまうのじゃ、決して食べ物でも、二食以外は食べませんと、自分を二食の中に言わば、窮屈なごたるけれど、その中に自分を押し込んでしまわにゃ、決して神様のお許しを頂かなければ、物は一つでも買いませんと云う様に、自分というものを、そこん中に、押し込んでしまわにゃ、そういう修行ね。
 これは自分自身心が助かる事の為にですね、例えてそう云う事になりますとです、例えば、うんならばですね、一日の生活費を百円なら百円しか使いませんという修行をさして頂きますとね、千円頂いても二千円頂いても、決してそれを無駄に使う事はないでしょう。ところがです、何時もそのまあ、言わば難儀をしておる、もうちょこっと入って来る。もうそうするとそのパア-とそのそれを使うてしまわな気がすまんと言った様なです、言わば事になって来る。
 そう云う様な事の為に、神様が言わば金銭のなら金銭の、お繰り合わせを下さる筈が御在ませんもんね。これはまあ自分の工夫です。自分を出来るだけの自分なりにです、窮屈な私は、修行というものが必要です。又私共がしょうと思わんでも、神様がそれを求めなさる場合も御在ますでしょうが、自分から貧乏しようというものはないに致しましてもですね。どうしても神様が、金銭のお繰り合わせを下さらない。
 例えば金銭の事などね、まあこんなに窮屈な思いをする事はありませんね。ですからその事をです、今こそ生き締められておるという気持ちで御礼申し上げる信心になる事です。今こそ荒波の中に箱ん中に押し込められて投げ込まれておる時だという事です。これでも、これでもやっていけるという事なんですね。そういう私は、あの修行がです繰り返し繰り返しでけていく所に、言わば頂くのは力であると云う事、力があるから私共は助かる事がでけるのですよ。
 先ず、自分自身が本当に助かる。私はもう何時もそれです。先ず、誰じゃない、彼じゃない、私自身が助かる事なんです。又私ほど自分の助かりをいうものはありますまい。又願っておるものもありますまい。私自身がどの様な中にあっても助かっておられるという、そこんとこの稽古をさして頂く為に矢張り、窮屈な修行をです、やっぱり積まなければいけません。それが窮屈を窮屈と感じん様になる。そこに私の内部的な助かりと云う事に成って来るでしょうね。
 只、信心のおかげと云う様な、外部的の事、只自分の思う様になる事だけを願うという事だけの助かりであったらです、もし頂かなかったら自分自身が苦しまんならんでしょうがね。それが矢張り力になる。その力を神様にお供えをする、いわゆるそれだけの信ずる力というものを、神様にお供えをするから、神様がそれだけに対する所のおかげを下さる事は、勿論ね、内外共に、だから助かって行く。
 ですから先ず助かると言う事を、自分自身が助かる事自分自身と云う事、自分の心がか助かる事、その為に一つあの伊勢海老の様な修行がです、なされなければならんと。そしてその中にです生き締められておる自分と云う事に成って参ります時に。その事にも御礼が申し上げられる信心になる事なのだ、そこに暑かっても有難いなあ、寒かっても有難いと、そういう有難いが神様にお供えが出来るおかげを頂かねばならん。
 そこには、もう暑い思いはさせんぞ、寒い思いはさせんぞという働きが、もう、絶対始まるんです。それを私共が暑う御在ます、寒う御在ますというて、只そこん時だけの助かりを求めただけじゃ詰らん。暑い中にあっても、暑い中にあってもおかげと感じさして頂けれる、いわゆる助かり方、そういう助かりを私は、自分自身の助かりだとこう思うね。そういう助かりがお供えがでける。
 そういう助かりの喜びが頂けれる時、今申します様に、もう暑い思いはさせんぞ寒い思いはさせんぞという働き、そこに内外共に本当の助かりと云う事に、そういう助かりに合う事が出来る。どうぞ皆さんもう何というても、先ず自分自身が助からなければいけません。自分自身が先ず儲け出さなければ、自分自身が病気が良うならにゃ、そういう意味じゃないですね。
 自分自身の助かりというものは、どういう中にあっても私が有難いという、思える、いわゆるその事に対して、御礼が言えれる私はおかげ、それには皆さんが修行なさらなければいけません。どんな窮屈な修行でも今こそ、生き締められておるという実感の元にその修行が、なされなければならない。そこから必ず、有難いその中に喜びが湧いて来る。それが有難い。それが私、本当の私が助かるという、そう云う事だと言う風に思う。
   どうぞ。